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賀茂川まで来ると、風眼坊は四条の橋の上から餓死者の群れを眺めた。
それは異常な風景だった。それらはあまりに多くて、とても人間の屍(しかばね)とは思えなかった。鼻をつく屍臭さえ気にならなかったら、それらは単なる自然の造形、当たり前のように、そこにある物と錯覚してしまう程、なぜか、違和感を感じさせなかった。
数人の時宗の坊主が小さな木片の卒塔婆(そとば)を死者一人一人に配って、念仏を唱えていた。
今日も一日が暮れようとしている。
死者の山に夕日が当たり、地獄絵さながらに真っ赤になった。
とにかく、今日一日は無事に生き延びる事ができた‥‥‥風眼坊は心の中で、そう感じていた。明日の事など考える事もできなかった。
風眼坊は橋の上から無残な屍たちに法華経(ほけきょう)を唱え始めた。それは無意識の内の行動だった。心の奥底から自然と涌いて出るお経だった。
風眼坊は我も忘れ、法華経の中に入って行った。
どれ位、時が経っただろうか‥‥‥
「小太郎ではないか」
誰か、風眼坊に声を掛ける者があった。
小太郎‥‥‥それは風眼坊が出家する前の名前だった。自分の名前ではあるが、最近、その名前で呼ばれた事はない。懐かしい響きを持っていた。
風眼坊が振り返ると、そこに一人の武士が立っていた。
「やはり、小太郎だな」と、その武士は笑いながら言った。
「新九郎か‥‥‥」風眼坊は武士の姿を上から下まで眺めながら、懐かしそうに笑った。
「どうやら、お前も本物の坊主になったらしいな」新九郎と呼ばれた武士は乞食同然の格好をした風眼坊を皮肉るような口調で言った。
「ふん、お前も立派な武士になったもんじゃな」風眼坊も皮肉っぽく言った。
新九郎は確かに立派な武士らしかった。この時勢にまともすぎる、なりをしていた。
「ふん、つまらんよ」新九郎は吐き捨てるように言うと橋の手摺りに手をつき、川の方に目をやった。
「ひでえ世になったもんじゃな」と風眼坊がポツリと言った。
「ああ‥‥‥みんな、腐っておる」新九郎は眉間にしわを寄せて、目の前の風景を見つめた。
「何年振りかな‥‥‥」と風眼坊が言った。
「さあな‥‥‥」
「国を出てから、もう十二年じゃ」
「十二年も経つのか‥‥‥早いもんじゃな」
二人とも夕日に照らされた死体の山を見つめながら、ポツリ、ポツリ会話をかわしていた。
「今、何やってる」と風眼坊が聞いた。
「くだらん事さ‥‥‥嫌気がさしてきてな‥‥‥そろそろ飛び出そうかと思っている」
「どこへ」
「さあな‥‥‥」
「まだ、早いぜ」
「分かってるさ」新九郎は苦笑すると、「いつから、京にいるんだ」と風眼坊に聞いた。
「ここ、一年はいるな」
「ふん、相変わらず、物好きだな」
「まだ、俺の出番がねえだけさ」
「お前は昔のままだな」
「お前もな」
「いや、最近、俺は自分自身がいやになって来ている」と新九郎は顔を歪めた。
「まだ、あそこにいるのか」と風眼坊は聞いた。
「ああ‥‥‥久し振りだ、飲むか」
「飲む?‥‥‥あるのか」
「あるわけねえ‥‥‥が、ある所にはある」
「ある所にはあるか‥‥‥うむ、久し振りに飲むか」
風眼坊舜香と伊勢新九郎は暮れかかった町の方に歩き出した。
東の空に赤い、おぼろ月が霞んでいた。
それは異常な風景だった。それらはあまりに多くて、とても人間の屍(しかばね)とは思えなかった。鼻をつく屍臭さえ気にならなかったら、それらは単なる自然の造形、当たり前のように、そこにある物と錯覚してしまう程、なぜか、違和感を感じさせなかった。
数人の時宗の坊主が小さな木片の卒塔婆(そとば)を死者一人一人に配って、念仏を唱えていた。
今日も一日が暮れようとしている。
死者の山に夕日が当たり、地獄絵さながらに真っ赤になった。
とにかく、今日一日は無事に生き延びる事ができた‥‥‥風眼坊は心の中で、そう感じていた。明日の事など考える事もできなかった。
風眼坊は橋の上から無残な屍たちに法華経(ほけきょう)を唱え始めた。それは無意識の内の行動だった。心の奥底から自然と涌いて出るお経だった。
風眼坊は我も忘れ、法華経の中に入って行った。
どれ位、時が経っただろうか‥‥‥
「小太郎ではないか」
誰か、風眼坊に声を掛ける者があった。
小太郎‥‥‥それは風眼坊が出家する前の名前だった。自分の名前ではあるが、最近、その名前で呼ばれた事はない。懐かしい響きを持っていた。
風眼坊が振り返ると、そこに一人の武士が立っていた。
「やはり、小太郎だな」と、その武士は笑いながら言った。
「新九郎か‥‥‥」風眼坊は武士の姿を上から下まで眺めながら、懐かしそうに笑った。
「どうやら、お前も本物の坊主になったらしいな」新九郎と呼ばれた武士は乞食同然の格好をした風眼坊を皮肉るような口調で言った。
「ふん、お前も立派な武士になったもんじゃな」風眼坊も皮肉っぽく言った。
新九郎は確かに立派な武士らしかった。この時勢にまともすぎる、なりをしていた。
「ふん、つまらんよ」新九郎は吐き捨てるように言うと橋の手摺りに手をつき、川の方に目をやった。
「ひでえ世になったもんじゃな」と風眼坊がポツリと言った。
「ああ‥‥‥みんな、腐っておる」新九郎は眉間にしわを寄せて、目の前の風景を見つめた。
「何年振りかな‥‥‥」と風眼坊が言った。
「さあな‥‥‥」
「国を出てから、もう十二年じゃ」
「十二年も経つのか‥‥‥早いもんじゃな」
二人とも夕日に照らされた死体の山を見つめながら、ポツリ、ポツリ会話をかわしていた。
「今、何やってる」と風眼坊が聞いた。
「くだらん事さ‥‥‥嫌気がさしてきてな‥‥‥そろそろ飛び出そうかと思っている」
「どこへ」
「さあな‥‥‥」
「まだ、早いぜ」
「分かってるさ」新九郎は苦笑すると、「いつから、京にいるんだ」と風眼坊に聞いた。
「ここ、一年はいるな」
「ふん、相変わらず、物好きだな」
「まだ、俺の出番がねえだけさ」
「お前は昔のままだな」
「お前もな」
「いや、最近、俺は自分自身がいやになって来ている」と新九郎は顔を歪めた。
「まだ、あそこにいるのか」と風眼坊は聞いた。
「ああ‥‥‥久し振りだ、飲むか」
「飲む?‥‥‥あるのか」
「あるわけねえ‥‥‥が、ある所にはある」
「ある所にはあるか‥‥‥うむ、久し振りに飲むか」
風眼坊舜香と伊勢新九郎は暮れかかった町の方に歩き出した。
東の空に赤い、おぼろ月が霞んでいた。
更新日:2011-05-16 10:09:19