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寛正の大飢饉

 異常気象が続いていた。
 長禄三年(一四五九年)、春から夏にかけて雨が全然降らず、日照りが毎日続いた。
 秋になると畿内を中心に大暴風が襲来した。賀茂川は大氾濫し、民家を流し、京中の溺死者だけでも相当な数にのぼった。しかも、京都への輸送が麻痺して米価が暴騰し、餓死者も続出した。その結果、京都、大和の土民が徳政を求めて蜂起した。
 ――一揆である。
 しかし、それだけでは治まらなかった。
 翌年も、春から初夏にかけて雨が一滴も降らず、日照りが続いた。あちこちで農民たちが、わずかな水を求めるために血を流していった。夏になると一転して長雨が続き、異常低温となり、夏だというのに人々は冬の支度をしなければならなかった。そして、秋には、また大暴風が吹き、おまけに蝗(いなご)が大発生して田畑は全滅という悲惨な状態となった。山陽山陰地方では夏頃から食糧がまったくなくなり、人が人を食うという餓鬼道(がきどう)まで出現していた。
 十二月二十一日に年号を長禄から寛正(かんしょう)と改元したが、それは気休めに過ぎなかった。
 年が改まった寛正二年、それは全国的に食糧不足で始まった。
 京の都では、町のあちこちで餓死者が山のように重なりあっていた。村を捨て、都に出て来た者もかなりいたが、京に出て来たとしてもどうなるものでもなかった。町中に乞食(こじき)があふれていた。
 賀茂川では河原も水の中も餓死者の死体で埋まり、水の流れはふさがれ、屍臭が鼻をついた。この時、京都の餓死者は八万二千人にも達したと言われている。
 秋になって、ようやく飢饉(ききん)も下火になって行ったが、今度は疫病が流行り、死者の数が減る事はなかった。
 幕府はこの大飢饉に何の対策もしなかったばかりでなく、幕府の中心をなす管領(かんれい)家の一つ、畠山家では、この飢饉の最中にも山城、河内、大和などで家督争いの合戦を繰り返していた。将軍、義政は飢饉など、まったく無関心に日夜、酒宴を開き、寺参りや花の御所の復旧工事、庭園造りなどに熱をあげていた。
 この時期、何らかの対策を行ったのは時宗の聖(ひじり)たちだけであった。彼らは飢えた人々に粟粥(あわがゆ)を炊き出し、施しを始めた。やがて、食糧も尽き果て施しができなくなると、今度は行き倒れた人々や流民(るみん)小屋で死んで行った人たちの死体を賀茂川の河原に運んで、丁寧に葬ってやっていた。



 今日も一日、暑かった。
 すべてが乾燥していた。
 ここは京の都‥‥‥
 しかし、今、これが都と呼べるのだろうか‥‥‥
 確かに、人の数は多い‥‥‥
 が、まともな人間はほんのわずかであった。人間だけでなく、生命(いのち)ある物たち、すべてが、かろうじて生きているという有り様だった。
 一揆のために焼かれ、無残な姿を残すこの寺の門の回りにも、かろうじて生きている生命たちが集まっていた。皆、骨と皮だけになった乞食たちである。生きているのか、死んでいるのかわからない者たちが、じっと、うづくまっている。
 その中に、大峯山の修験者(しゅげんじゃ)、風眼坊舜香(ふうがんぼうしゅんこう)のやつれた姿もあった。頑丈な錫杖(しゃくじょう)だけを場違いのように持ってはいるが、あとは、まったく乞食と同じ格好だった。髪も髭も伸び放題の青白い顔に目だけをぎょろつかせ、あたりを睨んでいる。
 風眼坊は痩せ細った体をゆっくりと持ち上げ、錫杖にすがるように立ち上がった。
「兄貴、どこ行くんや」と風眼坊の横で寝そべっていた乞食が情けない声を出した。「どこに行ったかて、食うもんなんかあらへん。余計に腹が減るだけや。寝てた方がましやで」
 風眼坊はその声には答えずに歩き始めた。
 手に持った錫杖の音までも情けなく、あたりに響き渡った。
 あれから風眼坊は大和の国(奈良県)に向かい、しばらくは熊野の山の中の小さな村に住む、お光という女のもとでのんびり暮らしていた。その後、吉野に行ったら、南朝の皇胤(こういん)というのが突然、現れて吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)と争いを起こした。風眼坊もその合戦に巻き込まれ、薙刀を振り回して暴れ回っていた。その合戦の片が付くと、葛城山(かつらぎさん)に籠もり、下界の一揆騒ぎを高みの見物していた。それに飽きると、また旅に出て、伊賀(三重県北部)、近江(滋賀県)のあたりをブラブラしていたが、飢饉になると、ひょっこりと京にやって来たのだった。

更新日:2011-05-16 10:08:52

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