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 愛洲白峰‥‥‥かつては、愛洲水軍の大将として、熊野から志摩にかけて名を轟かせていた。『愛洲の隼人(はやと)』と言えば海の猛者たちの間で恐れられ、また、尊敬もされていた。
 八年前の戦の時、左脚に矢を射られ、射られた場所が悪かったとみえて、それ以来、左脚が自由にならなくなった。歩くにはたいして気にならないが、船上で自由に動き廻る事は難しくなった。それでも、水軍の大将として頑張っていたが、孫の太郎も生まれ、息子の宗忠も一人前になったので『隼人正』の名を宗忠に譲り、二年前から隠居して白峰と号していた。
「お爺ちゃん、もう手が痛いよ」と太郎は木剣を構えたまま白峰を見た。
「太郎、そんな事じゃ大将にはなれんぞ」
 白峰は太郎の頭めがけて木剣を打った。
 太郎はかろうじて、木剣でそれを受け止めた。
「よし、今日はこれまでにしておくか」
 二人は木剣を引き、互いに礼をかわした。
「太郎、剣術は好きか」と白峰は海の方を見ながら言った。
「はい」と太郎も海を見ながら答えた。
「そうか、好きか‥‥‥」
 のんびりとした春の海だった。
 ちょうど旅人たちを乗せた船が、愛洲水軍に守られながら熊野に向かって出て行くところだった。船旅の無事を願う法螺(ほら)貝や太鼓の音が港の方から賑やかに聞こえて来た。
「ねえ、お爺ちゃん、もうお船に乗らないの」
「うん、そうだな‥‥‥お前、船に乗りたいのか」
「うん、乗りたい」
「そうか、今度、お父さんに頼んで乗せて貰おう」
「ほんと?」と太郎は白峰の袖を引っ張った。
「ああ、本当だとも」白峰は太郎の肩を抱いた。
「わぁい、お船に乗れる。あの、お父さんが乗っている大きいお船がいいや」
「大きい船でも小さい船でも、何でも乗れるさ」
「ねえ、いつ? いつ乗れるの」
「それは、お父さんに聞いてみないとわからんよ。お父さんもお仕事が忙しいからな」
「早く乗りたいな‥‥‥ねえ、遊びに行っていい?」
「ああ。じゃが、気をつけるんじゃよ。海を甘くみちゃいかんぞ」
「大丈夫だよ」
「お前も海のように大きくなるんだぞ」
「海のように?」
 太郎はきょとんとした顔で白峰の横顔を見ていたが、やがて、木剣を白峰に渡すと外に駈け出して行った。
 白峰は目を細くして孫の後姿を見送った。

更新日:2011-05-16 10:05:21

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