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誕生
静かな海だった。
もうすぐ、満月になろうとする月が南の空にポッカリと浮かんでいる。そして、きらめく星空の下に一艘の船がポツンと浮かんでいた。
ここは熊野灘(なだ)、志摩半島の南、五ケ所湾の入口、田曽岬のすぐ先であった。
ポツンと浮かんでいる船は『関船(せきぶね)』と呼ばれる中型の軍船で、その見張り櫓(やぐら)の上に、一人の男が仁王立ちになっている。総髪(そうはつ)の頭に革の鉢巻を巻き、腹巻と呼ばれる鎧(よろい)の胴を付け、三尺余りもある長い太刀を佩(は)き、十文字槍(やり)を左手に持ち、遠く東の空を睨んでいる。今にも戦が始まるかのような出立ちであった。
海は静かだった。船の上にも、その男以外に人影は見えない。
その男の名を愛洲太郎左衛門宗忠(むねただ)と言う。愛洲一族の一人で後の水軍の大将である。
愛洲一族は南北朝以前から南伊勢一帯に勢力を持つ豪族で、南北朝時代には伊勢の国司、北畠氏を助けて南朝方で活躍をした。しかし、時は流れ、今は伊勢の国(三重県)の南端、五ケ所浦でひっそりと暮らしていた。
五ケ所浦は北、東、西と三方を山に囲まれ、南は海に面した狭い所だが交通の要所として賑わっていた。伊勢参り、熊野詣でが庶民にまで広まって、近くの者はもとより、遠くは周防(すおう)、長門(ながと)(どちらも山口県)や奥州(東北地方)などからも講を組み、先達(せんだつ)や御師(おし)に連れられて参詣にやって来た。
ここ五ケ所浦は熊野と伊勢神宮を結ぶ水路として栄えていた。熊野から来た参宮者は、ここで船を降り、陸路、剣峠を越えて伊勢内宮、外宮へと向かい、伊勢から来た者は、ここから船で熊野へと向かって行った。それらの旅人たちの安全な旅と引き換えに、愛洲氏は彼らから関銭を取っていた。
愛洲太郎左衛門宗忠ひきいる水軍も海の関所の役割を果している。関銭を払えば、その船の安全をはかるが、払わないと、その船は水軍に囲まれ、金品は全て没収、逆らう者は殺され、魚の餌食(えじき)となって行った。
仁王立ちの宗忠は身動きもせず、東の空を睨んでいる。
「お頭!」と見張り櫓の下から声を掛けた者があった。
「お頭!」
宗忠が黙ったままでいるので、もう一度、声を掛けた。
「何じゃ」宗忠は声の方を向こうともせずに返事をした。
「いつまでも、そんな所に立っておられては冷えますぞ」
「新五か‥‥‥おい、酒はあるか」
「はっ、ここに」と芳野新五郎貞行は手に持った、ひょうたんを高く上げて宗忠に示した。
「おう!」宗忠は気合を掛け、左足を大きく踏み込み、槍で空(くう)を一突きした。
一突きした後、空を見上げると宗忠は見張り櫓から降りて来た。
「お頭、今日もいい天気になりますな」と新五郎は宗忠の槍を受け取った。
二人は船首の方に行くと甲板に座り込んだ。新五郎は酒をひょうたんから大きなお椀に注いだ。宗忠は新五郎が差し出した酒を一息に飲みほした。
東の空と海が、ようやく明るくなり始めて来ていた。
宝徳四年(一四五二年)、この年は夏に長雨が続き、諸国が洪水に悩まされた。京都より北陸にかけては疱瘡(ほうそう)が大流行し、小児らが多数死んで行った。民衆は各地で徳政を求めて一揆を起こしている。七月二十五日に享徳元年と改元され、ようやく長雨も終わり、真夏のような暑い日々がやって来た。
「今日も暑くなりそうですな」と新五郎が東の空を見ながら言った。
海鳥が海の上を鳴きながら飛び始めていた。
陸(おか)の方では海女(あま)たちが焚火を始めたらしい。五、六人の海女が高い声を上げながら、海の中に入って来た。
「平和じゃのう」と宗忠がポツリと言った。
新五郎も海女たちの方を眺めながら頷(うなづ)いた。
海女たちは桶(おけ)を抱え、白く光る海の上を沖に向かって気持ち良さそうに泳いでいる。
宗忠と新五郎はのどかな朝の風景を楽しみながら、酒を飲み交わしていた。
あくびをしながら河合彦次郎吉晴が太刀を引っさげて、やって来た。
「おっ、やってますな」とニヤッと笑う。
「おう、彦次か、お前もやれ」と宗忠は彦次郎の顔を見上げた。
「いいんですか。朝っぱらから」
「なに、祝い酒じゃ」宗忠は酒の入った椀を彦次郎に差し出した。
「おう、そうでした、そうでした」彦次郎は嬉しそうに笑うと座り込み、酒を飲み始めた。
「立派な男の子じゃぞ」と彦次郎は新五郎の肩をたたいた。
「そんな事、決っとるわい」と新五郎は宗忠の方を見て頷いた。
宗忠は二人に横顔を見せたまま、海を見つめていた。
もうすぐ、満月になろうとする月が南の空にポッカリと浮かんでいる。そして、きらめく星空の下に一艘の船がポツンと浮かんでいた。
ここは熊野灘(なだ)、志摩半島の南、五ケ所湾の入口、田曽岬のすぐ先であった。
ポツンと浮かんでいる船は『関船(せきぶね)』と呼ばれる中型の軍船で、その見張り櫓(やぐら)の上に、一人の男が仁王立ちになっている。総髪(そうはつ)の頭に革の鉢巻を巻き、腹巻と呼ばれる鎧(よろい)の胴を付け、三尺余りもある長い太刀を佩(は)き、十文字槍(やり)を左手に持ち、遠く東の空を睨んでいる。今にも戦が始まるかのような出立ちであった。
海は静かだった。船の上にも、その男以外に人影は見えない。
その男の名を愛洲太郎左衛門宗忠(むねただ)と言う。愛洲一族の一人で後の水軍の大将である。
愛洲一族は南北朝以前から南伊勢一帯に勢力を持つ豪族で、南北朝時代には伊勢の国司、北畠氏を助けて南朝方で活躍をした。しかし、時は流れ、今は伊勢の国(三重県)の南端、五ケ所浦でひっそりと暮らしていた。
五ケ所浦は北、東、西と三方を山に囲まれ、南は海に面した狭い所だが交通の要所として賑わっていた。伊勢参り、熊野詣でが庶民にまで広まって、近くの者はもとより、遠くは周防(すおう)、長門(ながと)(どちらも山口県)や奥州(東北地方)などからも講を組み、先達(せんだつ)や御師(おし)に連れられて参詣にやって来た。
ここ五ケ所浦は熊野と伊勢神宮を結ぶ水路として栄えていた。熊野から来た参宮者は、ここで船を降り、陸路、剣峠を越えて伊勢内宮、外宮へと向かい、伊勢から来た者は、ここから船で熊野へと向かって行った。それらの旅人たちの安全な旅と引き換えに、愛洲氏は彼らから関銭を取っていた。
愛洲太郎左衛門宗忠ひきいる水軍も海の関所の役割を果している。関銭を払えば、その船の安全をはかるが、払わないと、その船は水軍に囲まれ、金品は全て没収、逆らう者は殺され、魚の餌食(えじき)となって行った。
仁王立ちの宗忠は身動きもせず、東の空を睨んでいる。
「お頭!」と見張り櫓の下から声を掛けた者があった。
「お頭!」
宗忠が黙ったままでいるので、もう一度、声を掛けた。
「何じゃ」宗忠は声の方を向こうともせずに返事をした。
「いつまでも、そんな所に立っておられては冷えますぞ」
「新五か‥‥‥おい、酒はあるか」
「はっ、ここに」と芳野新五郎貞行は手に持った、ひょうたんを高く上げて宗忠に示した。
「おう!」宗忠は気合を掛け、左足を大きく踏み込み、槍で空(くう)を一突きした。
一突きした後、空を見上げると宗忠は見張り櫓から降りて来た。
「お頭、今日もいい天気になりますな」と新五郎は宗忠の槍を受け取った。
二人は船首の方に行くと甲板に座り込んだ。新五郎は酒をひょうたんから大きなお椀に注いだ。宗忠は新五郎が差し出した酒を一息に飲みほした。
東の空と海が、ようやく明るくなり始めて来ていた。
宝徳四年(一四五二年)、この年は夏に長雨が続き、諸国が洪水に悩まされた。京都より北陸にかけては疱瘡(ほうそう)が大流行し、小児らが多数死んで行った。民衆は各地で徳政を求めて一揆を起こしている。七月二十五日に享徳元年と改元され、ようやく長雨も終わり、真夏のような暑い日々がやって来た。
「今日も暑くなりそうですな」と新五郎が東の空を見ながら言った。
海鳥が海の上を鳴きながら飛び始めていた。
陸(おか)の方では海女(あま)たちが焚火を始めたらしい。五、六人の海女が高い声を上げながら、海の中に入って来た。
「平和じゃのう」と宗忠がポツリと言った。
新五郎も海女たちの方を眺めながら頷(うなづ)いた。
海女たちは桶(おけ)を抱え、白く光る海の上を沖に向かって気持ち良さそうに泳いでいる。
宗忠と新五郎はのどかな朝の風景を楽しみながら、酒を飲み交わしていた。
あくびをしながら河合彦次郎吉晴が太刀を引っさげて、やって来た。
「おっ、やってますな」とニヤッと笑う。
「おう、彦次か、お前もやれ」と宗忠は彦次郎の顔を見上げた。
「いいんですか。朝っぱらから」
「なに、祝い酒じゃ」宗忠は酒の入った椀を彦次郎に差し出した。
「おう、そうでした、そうでした」彦次郎は嬉しそうに笑うと座り込み、酒を飲み始めた。
「立派な男の子じゃぞ」と彦次郎は新五郎の肩をたたいた。
「そんな事、決っとるわい」と新五郎は宗忠の方を見て頷いた。
宗忠は二人に横顔を見せたまま、海を見つめていた。
更新日:2011-05-16 09:47:12