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応仁の乱

 時代は乱世へと向かって行った。
 寛正五年(一四六四年)、女の子ばかりで跡継ぎの男の子のいなかった将軍、足利義政は僧となっていた弟の義尋(ぎじん)を無理やり還俗(げんぞく)させて、義視(よしみ)と名乗らせ養子とした。
 ところが、翌年、夫人の日野富子が長男義尚(よしひさ)を生んだ。義政としては早く将軍職を義視に譲って、自由の身になって風流を楽しみたかったのに、富子は反対した。絶対に自分が生んだ義尚を将軍にさせたかった。



 足利義政は永享八年(一四三六年)正月に六代将軍義教(よしのり)の次男として生まれた。次男だったため、将来は僧侶となり静かな一生を送るはずだった。ところが、『恐怖の将軍』と恐れられた六代将軍義教が播磨の守護、赤松左京大夫満祐(みつすけ)に暗殺されてしまった(嘉吉の変)。七代将軍には義政の兄、義勝がわづか八歳で後を継いだが赤痢にかかり、十歳で急死してしまう。そこで、当時八歳だった義政が細川右京大夫勝元を後見人として将軍職の後継者となった。
 宝徳元年(一四四九年)、十四歳で元服した義政は征夷大将軍に任命された。正式に八代将軍になったとしても、将軍とは名のみであった。すでに政権は側室の今参局(いままいりのつぼね)、側近の有馬兵部少輔持家、烏丸准大臣資任らに握られ、管領(かんれい)の細川右京大夫勝元も好き勝手な事をしていた。
 二十歳の時、義政は慣例により日野家から富子を正室に迎えた。当然のように、今参局派と日野富子派が争うようになった。
 富子を迎えて五年目に富子は男の子を産んだ。今まで、女の子ばかりだったので義政は喜んだ。しかし、つかの間、その子はすぐに死んでしまった。その子が死んだのは、今参局が呪い殺したとの噂が広まり、義政は怒り、今参局を琵琶湖の沖の島に流した。富子はそれでも許せず、義政に今参局を死刑にしてくれとせまり、今参局は琵琶湖に向かう途中で自殺した。
 今参局がいなくなると日野富子とその兄、日野権大納言勝光、政所執事(まんどころしつじ)の伊勢伊勢守貞親が力を持ち、政権を動かすようになった。また、実力者として管領の細川勝元、嘉吉(かきつ)の変で赤松氏追討の功をたて、八ケ国の守護職を持つ山名宗全(そうぜん)入道もいた。これらの人々に囲まれ、将軍義政は成す術もなく翻弄されていた。
 細川勝元は父、持之が死んだ時、まだ十三歳だった。当時、幕府内で力を持っていたのは畠山左衛門督持国だった。勝元は畠山氏に対抗するために、勢力を伸ばしつつあった山名宗全と結び、宗全の娘を嫁に貰い、宗全の力で管領職に就く事もできた。しかし、政敵であった畠山持国が死ぬと、勝元と宗全は対立するようになって行った。
 この頃、赤松氏の遺臣らによって赤松家を再興しようという動きがあった。勝元はそれに手を貸す事にした。赤松氏の旧領、播磨(兵庫県南西部)、備前(岡山県南東部)、美作(岡山県北東部)は、山名氏のものとなっていたが、領内にはまだ、赤松氏の残党が隠れ潜み、山名氏に反抗していた。勝元は赤松氏を助け、彼らを扇動する事によって山名氏の勢力を弱める事ができると考えた。
 赤松氏は将軍義政の許しを得て、満祐の弟の孫の次郎法師丸(ほっしまる)が当時まだ四歳だったが家督を継ぎ、再興された。山名宗全は怒り、勝元との対立は深まって行った。
 また、勝元には後継ぎがなく、宗全の末っ子、七郎豊久を養子としていたが、嫡男の政元が生まれると豊久を勝手に出家させてしまった。宗全は怒り、豊久を環俗させて手元に引き取った。
 二人の間の溝はますます深まって行った。
 日野富子は男の子が死んだ後に、二人の子供を産むが二人とも女の子だった。
 義政はもう男の子はできないだろうと弟の義視を後継ぎにしたのだった。これには細川勝元の策略もあった。勝元としてはこの後、富子が男の子を産んで、益々、日野家が勢力を広げて行くのを抑えたかった。義政としても、うるさい連中に囲まれた不自由な将軍職を早くやめて、自由の身になりたかった。
 将来、男の子が生まれても赤ん坊のうちから僧にして将軍には絶対にしない、という誓書まで義政から貰った義視は将軍に成るべき準備を進めていた。
 ところが、翌年、富子が男の子を産んだのだった。義尚である。義政も今度こそはと、男の子を可愛いがった。義視との約束があったにしろ、富子がそんな事を承知するはずはなかった。
 ここに、将軍職をめぐる義視と義尚との対立が始まった。

更新日:2011-05-16 14:14:36

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