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短編小説『 猫のフーちゃん 』    吉田日出子

挿絵 475*290

 旭川の土手筋に広がる桜並木は、今まさに春らんまんである。
 俊介は二階のベランダから対岸に浮かぶ桜色の雲海を眺めていた。河原にはぼんぼりが立ち並び、提灯が吊り下げられ、わた菓子やタコ焼きなど昔ながらの屋台店が軒を連ねている。昼食の花見弁当を済ませて帰り支度に忙しい人々は仕事に戻るためか、ひょっとして午後から予定があるのかも知れない。学生らしい男女の群れは寝っ転がったりボール遊びをしたりと思い思いの恰好で笑いに興じ喚声を上げている。あちこちでシートを敷いているのは夜桜見物の準備だろう。家族連れや年配の集団、車椅子のグループも気ままな散策を楽しんでいる。時折吹く風に桜の花びらが舞い、のどかな風景だ。俊介はもう長い間、河原へ下りていない。尻尾まであんこが入っているたい焼きを頬張りながら屋台をのぞいて歩いたなあと、セピア色の思い出をたぐり寄せる。
 猫のフーがそろりと近寄ってきて大きな伸びをした。フーは隣の秋元さん方で飼われており俊介とは子猫の時からの付き合いである。
「フーちゃん、いい気持ちだなあ。桜がきれいだ」
 俊介もまた大きく背伸びをした。フーはベランダの端に丸まって、目を細めて日なたぼっこだ。ベランダの下の狭い道路は、桜並木の河原へも下りられないので人通りはまばらである。対岸の雑踏とはうらはらに静かであった。輝く春陽をうけて、俊介は眼下に見える桜並木のパノラマを満喫していた。
 この桜並木は五十年ほど前、当時の県知事や地元住民が植樹したものである。毎年美しい花を咲かせ旭川さくら道と親しまれて市民の憩いの場になっている。退職前は俊介もミノムシを取るなどして桜を大切にする住民活動に参加していた。桜の寿命は六十年程度らしい。寿命が迫る桜の延命を願って、近年『旭川さくらみちを守る会』が発足し本格的に桜並木の再生治療が行われている。冬場、木の幹などにできた空洞部分に植物繊維のピートモスを埋め込んだり、殺菌剤を塗布したりする。枝の剪定作業も行う。また樹木を見回り傷みを見つけ適切に処置して、日頃の手当も怠らない。こうした根気のいる治療を続けることで、あと半世紀は桜を楽しめるということだ。木も人も一緒だ。人生五十年と言われていたのが医療技術の進歩で人間も百歳の長寿社会になろうとしている。最も桜の花ほど、人の散り際がきれいとは限らない。人も桜も手入れ次第ということか……。

「こんにちは。そこからの見晴らしはいいでしょう」
通りからベランダの俊介に若い男が声をかけた。健康そうな白い歯をみせて笑っている。何となく親しみを覚える童顔だ。「うむ」と言葉にならない返事をして俊介は男を見下ろした。一瞬、あの子が生きていたらこの年頃だと思った。男は俊介に軽く会釈すると背を向けてデジカメでしきりにシャッターを切っている。脇にはさんでいた布地のカメラケースがするりと落ちた。男は対岸の桜並木や河原で憩う人々をとらえようとシャッター・チャンスに夢中だ。
「おい!ケースが落ちたぞ。踏んづけるな」思わずベランダから大声を出した。
「それ。そこ、そこ。足許だ」
 俊介が身を乗り出して指差すと男はうつむいて、辺りをきょろきょろしたが、すぐにカメラケースを拾い上げた。
「全然気が付かなくて、ありが……あーっ」
 ベランダのフェンスへ俊介はしがみついている。男の落としたケースに気をとられて、ベランダから通りをのぞき込みすぎたのだ。彼は前のめりになってフェンスへ体を預けたまま不安定な位置で全身を支えている足に力を入れ、後ろへふんばった。そのはずみでベランダへ勢いよく投げ出され、俊介は思い切り尻餅をついて起き上がれない。ねじれた足が言うことを聞かないのだ。
「大丈夫ですかあ」下から気遣う声がする。
「となりの秋元さんを呼んで下さい」
「えっ、なんて?」
「となりの秋元さん!」
 足の痛みに顔をしかめて俊介は力一杯叫んだ。
 ピンポーン、ピンポーン「秋元さん、秋元さーん」
 ピンポーン、ピポ、ピポ、ピンポーン。玄関のチャイムがせわしなく鳴り響いた。
「となりのおじさん。いや、おじいさんがベランダで転んでいます。行って見てあげて下さーい」
 家から出てきた女性は、ベランダを見上げて
「悪いけど手伝って下さいね」と言って、すばやく庭を横切って隣家へ向った。続いて男も敷地の境にある三段のブロックを乗り越え、庭から居間を通り二階へかけ上った。

更新日:2011-04-20 16:57:36

短編小説 『 猫のフーちゃん 』       吉田日出子 著