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第四章:こわいひと ―長月―

挿絵 221*166

 




 自分が生まれた瞬間を、覚えている。


 その時に見た色は、とても鮮やかで。綺麗で。


 その時にね、思ったんだ。


 誓ったんだ。


 僕は自分に、誓ったんだ。

 
 ああ、僕は、絶対に――――。


* * *


 奏一郎は、畑から空をじっと見ていた。先ほどから太陽の光に照らされたばかりの、温かみを含む雲が浮かぶ。
「……いい、天気だな……」
 そう呟けば、頭上から降ってくる声。
「奏一郎さん、おはようございまーす」
 小夜子が、廊下の窓から身を乗り出していた。彼女の声には張りがあり、表情も明るい。
「ああ、おはよう。早起きしたな」
「はい。早寝したので…」
 ふと、奏一郎の抱える籠を見る小夜子。
「畑のお手伝い、しましょうか?」
 奏一郎は畑を一通り眺めてから、小夜子の方に向き直る。
「身支度したら、降りてきてくれ」
「はーい」
 そう言って、彼女は窓から姿を消した。

* * *

 部屋でパジャマを脱ぐと、汚れても良さそうな藍色のTシャツを段ボール箱の中から引っ張り出す。中学の修学旅行にときに買ったものだ。
「……我ながら、色気無いなぁ……」
 鏡を見つつ苦笑する。ふと、壁際にハンガーで掛けられた制服を見つめる。黒いセーラー服のスカートの裾を、きゅっと掴んだ。

 今日から新しい学校でのニ学期が始まる。小夜子にとっては、初の登校日だ。
 転入が決まった当初は、自分がうまくやっていけるのか不安だった。だが今は、少しだけ希望が持てる。きっとそれは、この新しい環境――――奏一郎が与えてくれる、この環境のおかげだと小夜子は思う。

 奏一郎の店――『心屋』に小夜子が下宿し始めて、今朝で早三週間が過ぎる。彼との生活には、何の不満も、不安も無い。肺の病を患う小夜子にとって、空気の綺麗なこの環境はこの上なく良いもので、慣れない畑仕事も、理屈抜きに楽しくなってきていた。
 それに、奏一郎が言っていた、『自分で生命を創り出し、それを味という形で実感する』――。その魅力に、すっかり小夜子は取り憑かれてしまっていた。

 一つ、不安なところを挙げるとすればそれは――奏一郎の正体だ。
 意味不明な心屋の商品の中には、“意志”を持っている物があるのだ。小夜子が出会ったのは、ただの水筒、ではなく、『とーすい』という名を持つ、“意志”を持った水筒であった。
 『奏一郎が自分を創った』と、彼は言っていた。奏一郎がいったい何者なのか、人間なのか、はたまたそれとはまた別の何かなのか――。小夜子にはわからない。

 ――僕は人間だよ、そういうことにしといてくれ、今は――

 奏一郎は、そう言ったが。
 それって、『自分は人間じゃない』と、暗に言っているのではないか?


「ごめんください」
 階下から、男性の声が響く。
「はーい」
 返事をしつつ、身支度を整えたのを鏡で確認すると、小夜子は胡桃色の髪を風に躍らせて階段を降りた。
 店のシャッターを開けると、ヘルメットを被った郵便配達員の、まだ年若い男性が爽やかな笑顔で立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。配達、ご苦労様です」
 手渡された茶封筒は、奏一郎宛てのものだった。小夜子は振り返って、裏庭の彼に声をかける。
「……奏一郎さーん。どなたからかお手紙ですよー?」

 その声に、奏一郎は微笑んだ。誰からの、どのような手紙なのか、彼にはわかっていたから――。
「そこに置いておいてくれ。後で読むから、たぶん。今は、畑を手伝ってくれー」
「……はーい……」

 ――……いいのかな。『重要』って、判が押されてるんだけど……?

 あまり釈然としないのだが、郵便配達員の男性と軽く挨拶を交わすと、小夜子はその封筒を玄関先に置いた。それが、文字通り『重要』なものであるとは知らずに――。

更新日:2013-09-04 00:37:04

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