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第3章 亜沙子

 亜沙子は、来年早々に生まれる子供のために、せっせと色々な準備をしていた。
 実家の自分の部屋は、すっかり子供部屋のようになっている。出産した後も、しばらくは実家に居るつもりだった。
 本来なら、子供の誕生でもっと幸せいっぱいのはずなのに、残念ながら亜沙子には悩みがあった。それは、夫である涼と今ひとつ上手くいっていないということ。
 彼は、仕事と趣味の音楽のことばかりで、妊娠してから亜沙子はほったらかしにされている気分だった。子供が少しでも早く欲しいと思っていた亜沙子とは逆に、涼は子供があまり好きではなく、むしろいない方がいいとさえ思っていた。だから、妊娠が分かってからというもの、それまで二人の生活を楽しんでいた時とはまるで態度が変わってしまい、亜沙子を困惑させている。

 涼は、今では普通の会社員だが、学生時代にバンドを組んでいて、卒業後もしばらくは音楽の道をあきらめきれずに、就職もせずバイトで食いつないでいた。その頃からのファンの一人が亜沙子だった。クラシックをアレンジした曲を得意とする地味なバンドだったが、固定のファンが多い。
 聴かせるタイプの音楽で、定期的に行うライブには常連の顔ぶれが揃っていた。そんなグループの中でギターを担当していたのが涼だ。他の誰よりもカッコよく、女の子の中には曲を聴きに来るのではなく、涼を見に来る子がいたほどだった。
 彼がボーカルで、楽曲がもう少し一般受けするものであれば、メジャーデビューもあながち夢ではなかったかもしれない。
 しかし、夢は簡単にはかなわず、家庭の事情が厳しかったボーカルが抜け、事実上解散したような状況に追い込まれたのを機に、涼も就職をした。
 それでも、週に一度はスタジオを借りて、キーボードとベースとドラムの4人で集まって、練習は欠かさずにいた。

 亜沙子と結婚したのは、就職して3年目の、今から2年ほど前のこと。
 彼らの音楽が好きだったので、結婚後もスタジオに得意の料理を差し入れして、わきあいあいとしたムードで過ごしていた。
 それが、ちょうど亜沙子の妊娠が分かった頃に、ボーカル志望の女の子が見つかり、一気にバンド復活の空気になってしまったため、涼は、亜沙子のことをほったらかすだけではなくて、仕事にも身が入らなくなった。
 すっかり別人のようになってしまった涼は、自宅のマンションは友紀子の持ち物で、家賃がかからないのをいいことに、収入のほとんどをスタジオ代につぎ込んでいる。
 仕事が出張の多い職種のため、もともと家に帰らないことが多かった上に、出張のない日までスタジオに入り浸るようになり、この2ヶ月はろくに会ってもいない。

更新日:2009-06-01 05:36:14

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