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◆大河ドラマ◆

 瀬崎史遊は歴女ではない、と先に書きましたが、歴史小説は好きでそれなりな量を読んでいるのではないかと思っています。
 遥か昔の学生時代は、司馬遼太郎の『燃えよ剣』がバイブルでしたので、今でも主な新撰組隊長のほとんどの名前が言えます。
 だいたい、毎年の大河ドラマも通して見ていたのですが、TV自体を見る時間が減少している上に、歳を経るにつれて俳優の好みが偏ってきてしまい、大河ドラマに限らず、毎週同じ時間にドラマを見ることもほぼなくなりました。
 今作のイメージとした大河ドラマも、実はかなり見ていない回があります。
 辛うじてGACKT氏の出ている回は見ましたが(笑)。

 それでも、それなりの回数は見てますが、最後まで主人公の山本勘助が何のために武田信玄に仕え、何をさせたいのかわかりませんでした。
 “武田信玄が、天下を獲ったら××な世の中になるから獲ってもらうのだ”、と言った目的が、私にはとうとう不明のまま大河ドラマ終了で、『えーっと?このドラマの趣旨はなに?見果てぬ夢みたいな?』的な感想が今もあり、その辺りが、今作の『なにかをなす』が『何かをなすには人間の一生は短い』と殺生丸に言わせている部分に影響していると思います。
 ま、歯抜け状態で連続ドラマを見たからそうなった、のだと思いますが、そう思いながら見ていた最終回、故緒形氏演じる宇佐美定満が、山本勘助に『何故、そこまでして戦う?』と問うシーンがありました。
 私もまさしくそう思いながら見ていましたので、勘助の直接的な『お館さまに天下を獲ってもらうため』という返事しかなかったことに驚いた記憶があります。
 前後しているかもしれませんが、その勘助の返答に対して、宇佐美が『そこまで修羅の道を進んでなんの益がある』といった趣旨の言葉を言ったのですが、それに対して返事は無く、第四次川中島の戦いが始まり、勘助は宇佐美に作戦を見抜かれ戦死した、という流れだったと思います。
 戦はいつも空しい結果しか生まない、と言うのは、平和ボケの戯言かもしれませんが、犬夜叉で、奈落が、あの壮絶な戦いで四魂の玉を得ても、結局、得たものは『なにもない』と言う言葉も、それを示しているのかな、と思いもします。
 もちろん、全編を見ていればわかったのかも知れませんが、私が見た回においては、ひたすら謀略に明け暮れていたようにしか思えませんでした。

 対して、大河ドラマの中盤に差し掛かるあたりから出てきた、GACKT謙信が、そのストイックさを強調するためか、戦いを厭いながも戦いを続け、そして驚異的に勝ち戦を続ける描写がよくありました。
 天下に興味などなく、ただ、自分の正義を貫くためには戦が必要であれば、それを躊躇いなく行う、と明確に言った謙信の思考は、下克上の戦国時代でありながら、当時としても現代においても、かなりラジカルな存在であったろうな、と、今更ながら驚きました。
 ファンの欲目は多々ありますが(笑)、“織田信長も恐れるぐらい強いけど、早死にして天下統一ができなかった残念な戦国武将”から、“歴史上さまざまな意味で稀有な戦国武将”に変った大河ドラマでもありました。

更新日:2010-05-24 01:20:23

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『夜光の盃』ライナーノーツ・・・のようなもの