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 暗闇で、ドスッ、ガスッ、と何かを叩くような鈍い音が響く。通りすがりに路地の奥を覗くと、二、三人の男が何か罵りながら一人の男を袋叩きにしていた。
「行きましょう、先輩」
 沢村がそれに気付き、そっと恵也の袖を引く。
「関わり合いにならない方がいいです。今、通報だけしますから」
 そしてそう言うと、路地から見えない場所に恵也を引っ張って行って携帯電話で通報した。その時、不意に暴漢の一人らしき男の声が「橘」と呼んだのが聞こえて、恵也はその名前にハッとして顔を向ける。
(橘ッ?)
 すると、それを見た沢村がグイと恵也の腕を掴んで引き止めた。
「放っておきましょう、先輩。契約を取る為にかなり悪どい手も使ってるようです。自業自得ですよ」
(ではやはり、あの橘か……)
 恵也は橘の不遜な顔を思い出し、キツく眉を引き寄せる。
「今は大事な書類も持ってますし、巻き込まれたら大変です。すぐに警察が来ますから早く行きましょう」
「そうだな……」
 恵也たちは今しがた、別のクライアント先で契約書にサインを貰って来たばかりである。恵也は沢村に手を引かれるまま駅に向かって歩いて行くと、地下に下りる入り口で立ち止まった。
「……用を思い出した」
「は?」
「私用だ。悪いが書類はお前が持って行ってくれ。社長が待ってるから急げよ」
 そしてそう言うと、鞄から封筒を取り出して沢村の胸元に押し付ける。
「えッ……ちょ……先輩ッ?」
 沢村が驚いたように呼び止めたが、恵也はそれを無視してクルリと身を翻すと、大急ぎで今来た道を戻った。

 先程の路地を覗くと、男たちは既にいなかった。通報があったからか大通りを二人の警官がこちらに向かって歩いて来るのを見て、恵也はそのまま立ち去ろうとする。しかし、飲み屋の裏口脇にある大きなポリバケツの陰に足が出ているのを見て、慌ててその路地に入った。
「橘……」
 そっと声を掛けると、ポリバケツの脇で死んだようにぐったりと横たわっていた橘が微かに目を開ける。
「……なんだ……戻って来たのか……」
 恵也を見とめ、小さく呟いてから再び目を閉じる。
「通報したから警官がそこまで来ている。どうする?」
 『どうする』とは、このまま保護されるか逃げるかという意味である。橘はチッと小さく舌打ちすると、ムクリと起き上がった。
「余計なことしやがって……」
 忌々しそうに呟き、しかしすぐにウッと呻いて脇腹を押さえる。
「大丈夫か」
 慌てて手を伸ばして長身の体を支えると、橘が不思議そうな目で恵也を見下ろした。
「……あんた、コア企画の営業サンだろ。何で俺なんか助けるんだ」
「え……」
 恵也は橘の言葉に戸惑う。本当だ、何故自分はこの男を助けに戻ったのだろうか。
「それは……」
 恵也は視線を外して言葉を探すと、躊躇いがちに答える。
「知り合い……だからだ」
 その言葉に、途端に橘がプッと噴き出した。
「おもしれーな、アンタ。アイテテ……!」
 笑った拍子に障ったのか、橘が苦悶の表情を浮かべて脇腹を押さえる。
「だ、大丈夫か?」
 恵也は慌てて正面から抱き留めると、背中に手を回して支えた。そこへ、ピカッと懐中電灯の眩い光が二人を明るく照らす。
「んッ……!」
 その瞬間、恵也はいきなり柔らかな何かで口を塞がれ、背中を壁に押し付けられた。
「何をッ……!」
 思わず唇をもぎ離して抗議しようとすると、橘が「しッ」と小さく言ってそれを遮る。
「協力してくれ」
 橘の声と、警官の「大丈夫ですか?」という声が重なる。
「俺に抱き付いて顔隠して……」
 理由もわからず言われるままに目の前の胸元に顔を隠してしがみ付くと、橘は顔を上げて、路地に入って来ようとしていた警官たちに軽く手を上げて見せた。
「すんません。すぐに場所変えますんで」
 そして軽い口調でそう言うと、緊張に身を硬くしている恵也に再び向き直って屈み込む。視界いっぱいに橘の端整な顔が近付き、その澄んだ黒い瞳に吸い寄せられるように魅入っているうちに、恵也は再びしっとりと口付けられた。

更新日:2012-09-24 21:04:39

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