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第6章-7 蘇らせた男

挿絵 400*300

 日清戦争の年である一九〇二年(明治三五年)、常磐線で東京にむかう男がおりました。男の名前は亀岡末吉といいます。亀岡は内務省技師で松島瑞雲寺修理のため仙台にいった帰りでした。蒸気機関車に牽引された客車車両に人は少なく、向かい合った席にいた老婆と話し込んでいたところ、老婆が、

「磐城(いわき)の白水というところに、徳姫という方がお建てになられたお堂があるから訪ねてみなさいな。むかし私が行ったとき、それはそれは素晴らしいお寺でしたよ」

 といい、徳姫の物語(※ 第6話参照)を訊かせてくれました。老婆の語り口は面白く、興味をそそるところがあります。

「白水阿弥陀堂か……」

 汽車は平駅を過ぎていましたが、亀岡は東京には帰らずに、ひとつ過ぎた駅で下り列車に乗りかえて平駅に引き返し、そこから人力車で、白水村へむかいました。そこで目にしたものは無残に荒れ果てた一棟の御堂でした。

「なんて荒れようだ。哀れな。廃仏毀釈運動(はいぶつきしゃくうんどう)のあおりをくらったんだな」

 亀岡は、堂に上がって御堂の柱、梁、天井、それに仏像群をつぶさに観察しました。その人は瞑想するかのように堂の中ほどで、往時の姿をイメージしてみました。

「痛みは極みに達している。どこもかしこも腐っているな――しかしなんて洗練された技巧なんだ。腐っても鯛(たい)だね、こりゃ。いや恐れ入った、こんなど田舎に都の技がきていたのかよ。ただの田舎寺とは格が違う」

 東京に戻った亀岡は、

 ――平安後期のすぐれた建造物白水阿弥陀堂を発見した。所在地は福島県磐前郡(いわさきぐん)白水村においてである。堂は南面して建ち、桁行き三軒、梁間三軒、一重、組物出組、宝形造り、とち瓦葺で宝珠・露盤を置く。組物や屋根の曲線に平安時代後期の特色がうかがえ地方色はない。阿弥陀三尊などの仏像は仏師の名匠定朝の流れをくむもののようだ。

 といった旨の報告書を提出し、東京美術学校(いまの東京藝術大学)図案科助教授千頭傭哉に緻密な図面を作成させ、さらに当代一の宮大工を白水村に派遣して解体修理の采配をしたため、御堂は朽ち果てる寸前で蘇り特別保護建造物の指定を受けました。その人が白水村を訪れてから二年後である一九〇四年(明治三七年)、日露戦争の年です。こうして一人の男の情熱によって白水阿弥陀堂は現在に残されたのです。

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 後日談――

 しばらくして昭和に元号が代わったころ、阿弥陀堂はまた痛み雨漏りなどしだします。、名もない老農夫が、雨が降るたびに仏像に藁をかけて守っているという状況でした。この人の名前を子供のころにきいたのですが残念ながら忘れてしまい残念なことをしました。

 一九三四年(昭和九年)、国庫から6千円の費用をかけて再び大修理がなされました。さらに一九四三年(昭和二十七年)御堂は国宝に指定されます。

 戦後、水田耕作中に浄土庭園の立つ石が発見され、住職の報告を受けた教育委員会が文化庁に申請し、一九五一年(昭和三六年)、一九七二年(昭和四七年)、一九八三年(昭和五八年)の三次にわたる発掘調査がなされ、浄土庭園が地中から姿を現しました。いまはそこに再び水が満々とたたえられて蓮池となり、鯉や亀が泳ぎ、鷺・翡翠(かわせみ)、それに白鳥までもが飛来して人々を喜ばせております。

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引用参考文献

菊地康雄「白水阿弥陀堂研究史」『いわき地域学会潮流第二四冊別冊』1997年

里見庫男監修『目で見るいわきの100年』 株式会社郷土出版社 1996年

  ※ 写真は、里見(1996年)よりの転載です。

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更新日:2010-04-16 02:55:32

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