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小説

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夏の海

そのジョガーはまだ15-6歳ほどの子供だった。
トロトロと渋滞する国道を走る俺の車の横を、軽快に走るその姿は最初女の子かと思ったくらい、細くしなやかで、憂いを帯びた顔立ちも儚げで優しかった。
この峠道を抜きつ抜かれつを繰り返す。人がそのまま走るだけのスピードで、もう10kmもほとんど併走されている状態な俺はリッター3km程度しか走らないこのドイツ車の300km/hを越せるスピードメーターを恨めしく眺めた。

彼が男の子だと解ったのは、運転席の窓から俺が声をかけたからだ。
「よぉ。どこまで行くんだい?」
峠で引き返すのではなく越えてきたので、ジョガーじゃなく駅伝の強化選手か何かか。
「…海まで」
「!…海まであと50kmはあるぞ」
「知ってます。ここで調度半分くらいですから」
併走するランナーと左ハンドルのドライバーは距離が近く、ただそれだけで親近感がわく。
よく見ると、しっかりしたアスリートの体つきをしており、薄い肌の中で筋肉が躍動しているのがわかる。体脂肪は7~8%台で、そのわずかなエネルギーもおそらく半分は消費されていることだろう。
ただし彼の表情からは、もう50kmも走った疲労感は全く感じられない。まるで公園に気晴らしにジョギングしにきた風で、そのフォームは爽やかだった。

俺は居心地のいいシートに座って肘をかけ、右足のつま先に少し力を込めるだけ。
そうやって海に辿り着いたところで、あいつは喜ぶのか?
助手席のシートに置いている小さな箱を見つめる。

峠の途中にある景色のいい展望台で車を止め、小さな東屋のベンチでタバコを吸っていた。するとものの数分で追い付いてきた彼が、東屋に入ってきた。
「よぉ」
「あ、こんにちは」
「君高校生?」
「はい、高2です。17歳」
「すげぇな、君」
「…走ることがですか?」
「そうさ。ふつうはそんなに走れないぞ」
「姉が…」ふと、遠くを見つめる眼になった彼。
「姉の口癖なんです。『走れっ!男は走ってなんぼやぞ』…ふふっ全く意味わかんないですよね」
そして背中に背負ったリュックをテーブルにおろし、軽くストレッチをはじめた。そのリュックは登山用の水筒タイプのリュックかと思ったら違うようだ。見た目軽そうなそれは、もしかしたらかなり重いのかも知れない。

「海に何しに行くんだ」なんて不躾な質問なんだろうと我ながら思うが、一回りも下の子に、なぜかすごく親近感を感じていた。
「姉が、海が見たいって言ってまして」…また姉か
「本人はいけないものですから僕が写真撮ってくるってことになり…」それって姉のパシリじゃんか!
「あ、おじさんも海ですか?」おじさん?まだ29だけど?
「そうだよ。一度見せてやりたくてね」

彼が俺の車を遠慮がちに覗く。だが助手席には誰も乗ってる様子はない。

「おじさんもパシリですか?」も?なんだ君、自分の立場を理解してるじゃないか。

「いや、俺は・・・」何かを言いかけた時、すごい勢いで雨が降ってきた。まるで天界のプールにでっかい穴があいたように。彼と1mも離れていないのに、声は全く聞こえない。東屋の外はまるで滝の中のようだ。轟音の中の無音空間。そんな不思議な時間。

たぶんあと数分も待ったらこのゲリラ豪雨も終了するだろうけど、なぜだか俺は
「乗れよ。雨がやむまで乗って進んでも反則じゃないだろ?」
「ははっ、実は僕もカッコいい車だなぁって思ってました」
俺たち二人は雨の中を走って、車内に転がりこんだ。
「おっと悪い。その箱うしろに置いといてくれ」
俺は助手席に置いていた小さな箱を彼に示した。
それは彼のような子供がわかるはずがないものなのだが、彼はなぜかそれがわかった。

「これは…あなたの?」
「…そう、俺の子供。まだおさかなさんくらいだけど」
昨日、妻が流産した。まだ胎児ではない。ただの肉片だけれども、俺たちにとっては最初の子供だった。

「…僕、この子、持ってていいですか?」最初意味がわからず、キョトンとする俺に
「落としませんから。ちゃんと持ってますから」わけもわからず頷く俺。

彼は自分のリュックの上にその箱をおいて大事そうにその二つを抱いていた。
車はゲリラ豪雨を追いかけてる形になって、いつまでたっても雨から抜けられなかった。そうこうするうちに最後の峠を越え、豪雨とのランデヴーも終わり、前の視界が開けるとそこに青い海が広がっていた。

助手席から微かに漏れる嗚咽と共に「姉さん、姉さん…」と彼の呟きが聞こえる。
そしてリュックを抱きしめる彼を、ああ、この子も大切なものを無くしたんだなと直感した。

さぁ、海を見られなかった命に、海を見せてあげよう。
そして海に帰してあげよう。海は命の母だから。
ぐっすりおやすみ。
またね。

豪雨を追いやった太陽が、誇らしげに海面をキラキラと照らしていた。


著作:ディー

更新日:2011-08-16 16:21:23