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文章教室

 先生が決めたお題で、生徒は400字詰原稿用紙2枚のエッセイを書く。
 ズバリ小説講座じゃないけれど、私が習いたいのは正しい文章の書き方、小説以前のこと。
 まさにここだ、と通うように。

 月に2回の教室で、授業の終わりに、お題を元に家で書いてきた文章を提出する。
 次の授業で、前回提出した文章に先生の添削が書き込まれた原稿のコピーが生徒全員に配られる。
 生徒全員の前で、ひとつひとつ全エッセイを、先生が音読しながら、おかしいところ、いいところを解説してくれる。

 原稿用紙の使い方は当然マスターしていたし、エッセイなんか日記と同じで簡単だと思っていたら、「書いた内容が理解できない」と指摘される。

 当時、私をのぞいた教室の平均年齢は六十歳。
 世代の差があるにしても、他の生徒さんが書いた文章は、私も理解できる。
 教室で自分の書いた内容の補足説明をすると、「それならわかります」と納得してもらえた。
 感性の違い?

 教室に慣れると、他の人の作品を読むのが楽しみに。
 もともと物語が好きなので、エッセイなんか読まなかった。
 でも、教室のエッセイは、800字と短いからか、目の前にいる人が書いたものだからか、文章に入り込める。
 それぞれの人生が長い分、内容が深いからかも。

 面白いことに、同じお題で書いても、誰一人、内容がかぶらない。
 他人の文章をじっくり読めるようになって、初めて、他の生徒さんの文章にも、わからない部分があることに気づく。

 「わからない」とは、「状況が読めない」もしくは「読みづらい」こと。
 教室で、書いた本人から説明を聞けばわかる。
 だけど文章だけではわからない。
 その多くが、書いた本人は書かなくてもわかっていることを、うっかり省くために起こる。
 感性の違いじゃなかった。

 例えば、「ココアが飛びついた」。
 教室で「ココアは愛犬のプードルなんですよ」と聞けば理解できる。
 「愛犬ココアが飛びついた」とすれば、解決。

 こう書くと、些細なことに思える。
 けれど些細なことが続けば、読むたびにひっかかる。
 理解しようと前後を読み直すのも、たびたびになると、文章を読み続けるのが苦痛になる。
 少なくとも、私なら読むのをやめる。

 先生が教えてくれた文章の基本は「読んだ人が瞬時に理解できる文章である」こと。
 これは自分が書いて自分で読んでいては気づきにくい。
 誰かの文章を読むか、自分の文章を他人に読んでもらって、初めて気づく。
 これが「文章以前の問題」?

(自分で気づくには、自分の作品を冷静に見る「第三者の目」と、「読解力」となる「洗練された文章の経験値」が必要らしい)

更新日:2011-07-30 15:39:12

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